人間というのは、
自分が合う場所や人、環境などを察知するセンサーのようなものが、
自然と付いているような気がする。

わたしも先日、
あまり合わないなという場所に行ったのだが、
案の定、その後、非常に疲れてしまった。

行く前から、
行きたくないなとすごく思っていたのですが、
面目上、行かないとならず的な感じで。

このケースは、
学校に行きたくないのに行く、
というのと非常に似ている気がする。

大人になると、
このセンサーは鈍くなるか、
ごまかすかしているように感じる。

お金のために、
仕事のために、
みんながやってるから、

という理由で、
捻じ曲げられていく。

ただ、
大人は感性そのものが鈍るので、
※脳の作り的にも20代から下降する。

なんとか、
ごまかせるのかもですが、

子どもはおそらく、
かなりの精度を持つ。

学校が嫌なら、
なにか察知しているのだろう。

別に、
逃げているわけでも、
理由が明確なわけでもない。

自分に、
合わないと察知しているのだ。

であれば
自分に合う場所はどこか?

どういう人や、
環境なら合うか?

これを探していけばよいのだが、
どうにもこうにも、

大人はセンサーが鈍いからか、
自分と同じように
がんばれと言ってしまう。

大人は大人だ。
子どもは子ども。

別の人間である。

しかも、
子どもの方がはるかに高性能だ。

携帯で言えば最新型。
大人はガラパゴスくらいであろう。

にも拘らず、
ガラパゴスが正しいと言う。

このようにちょっと目線を変えると、
非常に分かりよいのだが、

盲目的に、
自分の信条を押してしまう。

もちろん、
教育のために、

注意をしたり、
指導をしたり、
優しくしたり、

様々な面で、
大人はがんばっているし、
必要なことをしている。

しかし、
物事には勘所(かんどころ)、
抑えどころ、

というのがあり、

なんとも嫌な気がしている場所に行く、
というのは、
まさにそれだ。

ここにいると、
自分の人生が良くならない。

自分らしくいられない。

本当の仲間との出会いがない。

きっと、
察知しているのだろう。

では、
どこにその子の居場所があるのか?

それは、
おそらく大人(親)には分からない。

少なくとも、
引きこもり時代、
わたしの親は一切分かっていなかった。

むしろ、
最初のころはみごとに逆方向に
仕向けたものだ(笑)

その抵抗の手段として、
引きこもる、という行動を
もしかしたら取ったのかもしれない。

結局、
わたしの場合の居場所は
”社会”にあった。

親戚の力仕事のアルバイトや、
飲食店の手伝い、

ここで出会う、
大人たちに随分と勇気づけられたし、

仕事をして、
お金が稼げる、ということが、

学校に行くよりも、
遥かに心が躍っていた。

これは、
わたしのケースなので他の人に該当するかは
分からないが、

結局、
その後は経営者になっているから、
自然と正しい環境を好んでいたのだと思う。

ここで、
冒頭に戻る。

人間というのは、
自分が合う場所や人、環境などを察知するセンサーのようなものが、
自然と付いているような気がする。

子どもは、
生まれながらに将来どうなりたいか、
というのを持って生まれている気がする。

むしろ、
それを阻害している教育や環境に、
今の世はなってしまっているのではないかと思う。

一度、
捻じ曲げて壊れてしまったセンサーと心を戻すのは、
時間がかかるかもしれないが、

きっと大丈夫。

”信じる”

信じれば、
子どもも自分も信じれば、

かならず、
自然と道は拓けます。

少なくとも、
わたしはそうでした。

家庭塾のミライ
代表 西岡祐一