さて、その後、西岡祐一少年は小学生となる。
今後、この少年は不登校になっていくのだが、そうなっていく明確な理由がこの辺りから起き始める。
その一つを紹介しよう。
小学校二年生の時である。
雨の強い日で、渡り廊下もビシャビシャであった。そこを友人から追いかけられ、
こけてしまったのだ。
その打ちどころは悪く、ブロック塀の角に強打をしたのだが、
運が良いのか悪いのか、当たった場所は歯であった。
しかし、歯は完全に欠けてしまって出血もしていた。
これには当人も担任の先生もびっくりして、あわてて、母親に電話をした。
通常であれば、すっ飛んでくることであろう。しかし、ウチは違った。
仕事があるので来れないというのだ。
私の実家は、先述したかもしれないが、スーパーのフードコートでラーメン屋を営んでいた。
丁度忙しいころだったのかもしれないが、
これには担任の先生も含め、二人で呆然とした。
結局、担任の先生が歯医者まで連れていってくれて、
治療を済ませたのだが、ここで西岡少年は思う。
「自分のことは大事では無いのだろうか?」
幼少期に預けられ、緊急時にも迎えに来ない。
本当に、自分は大事な存在なのだろうか?
人はみな、根本的に誰かに愛されたい、大事にしてもらいたい、
という強烈な本能を持っている。おおよその家庭は、
この根本的な安全性は保たれての、その後の教育、成長のように思える。
ただ、何と言うか、ウチの場合は愛情の使い方が、妙に下手くそだった気がする。
無いわけでは無いのだが、愛情の使いどころ、伝え方は、
経験上、非常に大事な気がするなと思う。この事件は、そういう面で西岡少年に傷を作る、大きなきっかけになったのである。
ここで、振り返ってみたいのだが、
親からの目線では、この心の傷には気付けない。なぜなら、子供から言わないからである。
子どもはじつは、何かしら幼少期、思うところ、感じるところを確実に持っている。
その傷口は、忘れているにしろ、覚えているにしろ、根幹に刻まれてしまっているため、
大きくなるにつれ、何かしらの形で発現してくる、いや、発現させないとならない。
もっと根深い話をすると、それはそのもっと親の代から、代々続いている。
自分の親にされた嫌なことを、するまいするまい、と思っていても、なぜか、そのようにしてしまっているのだ。
親としてできることは、その流れを、グッと止めること。そして、その傷口をむしろ出させてあげることだ。
といって、この話は非常に難度の高い話なので、知りたい方にはまた後日、記載していこうと思う。
さて、話は戻り、傷ついた西岡少年はどうなるかというと、
人を疑うようになるのだ。親が信用ならない。大人、友達、そして、最後には自分が信用できなくなる。
不登校すべてに言えることではないが、おおよそ『信用、信頼』というものを失っている。逆に言うと、その部分をどうにか取り戻してあげると回復に向かうのだ。
しかしながら、西岡少年はこの後も『信頼』を回復していく事は無い。
むしろ、人や社会に対しての猜疑心は、さらに増していき、ついには不登校にたどり着くこととなる。
それでは、この次に起きる事件。
心の傷について次回は、お話ししたいと思う。

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